調弦
ヴァイオリンをこんなにもまじめに練習し始めたのは、いつの頃からだろうか。
誰もいない部屋にヴァイオリンの音が響き始める。最初に響いたのは不協和音、そこから少しずつ、完璧な同音に近づいていく。まるで職人の仕事のように精密にチューニングされた四本の弦を一つづつはじき、その共鳴する様子を見て楽しむ。そしてヴァイオリンをいとおしそうに構えると、次に始めたのは、悲鳴のようなトリルだった。時には地獄のそこから湧き上がる低音を、時には断末魔の悲鳴のような高温を繰り返していく。それは、音は完璧な共鳴をしているものの、その響きに問題があるとすれば、彼女にあるだろう。人から出される音は、人の精神状態に影響される。彼女の出す音は今の彼女の状態を端的に表わしていた。
それが終わると、今度はおもむろにクリアファイルをめくり始める、ふと手を止める。とそこのページには鎮魂曲(レクイエム)と書かれた楽譜が挟んであった。
「来週か…」
来週は、兄の命日があり、そのすぐ後には、コンクールが控えている。
(五年前のあの日、飛行機が落ちなければ…か)
彼女には、あまり時間は無かった。いつまでも悲しみに暮れている訳にはいかなかった。例え入賞できなくても、さすがに審査員の前で恥をかくのだけは嫌だから。
クリアファイルから譜面台に、楽譜を移し、練習を再開する。
課題曲は、明るめの曲だった。
それでもヴァイオリンは悲しい音を響かせる。
何かを追い払う様に必死になって練習を続ける彼女の姿はあまりにも小さかった。
鎮魂歌は響くもそれを止めるすべは今の彼女には無かった。